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Bike & Me vol.1「自転車で人生が変わった男」

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Interview People
2022/03/30

自転車と出会って人生が変わった人にインタビューをする「Bike & Me」。第1弾の今回は株式会社Bike is Life.代表の山田大五朗さん。17歳で自転車競技に出会ったことで人生が自転車一色になり、気づけば渡仏してしまったこの男。

自転車にであってまるで薔薇色の人生かと思いきや、めちゃくちゃの苦労人だったことが判明。自分の経験を活かして今では老若男女が自転車を楽しめるように新しい挑戦を楽しみながら続けています。

そんな大五朗さんの半生と、今についてお聞きしました。

中1で自転車に目覚め、高2で初めてスポットライトを浴びて。

ー大五郎さんが自転車を始めたきっかけって?

僕が中1頃にアメリカからマウンテンバイク(以下MTB)がやってきたんです。オフロードを走る姿に当時同世代はみんな憧れました。第1次MTBブーム到来。男子はこぞってMTBに乗ったんです。元々はビーチクルーザーを改造して砂浜を走ったり山を走ったりしていたのが、MTBになったんです。いろんな会社が代理店になって仕入れていました。

パナソニックのマウンテンキャットを5万円ほどで買ったのが最初です。こう見えて野球をやっていたんですけど、高1の甲子園予選でまさかの53-0で我が校は大敗して、やる気がなくなって(笑)。

ー大会デビューは何がきっかけだったのですか?

持っていた自転車がパンクして、自転車屋に持って行った時に大分県中津江村で行われるマウンテンバイクレースのポスターを見かけたんです。これがきっかけ。店長が「出てみたら?」って。野球を辞めてもやることがなかったし、高2の秋に初めて大会に出たんです。そしたらまさかの3位入賞!初心者のクラスですけどね。でもこれが嬉しかった。人生それまで日陰の人だったんで、初めてスポットライトを浴びたんです。商品も豪華で、ここで完全に勘違いしましたね。自分、才能あるなって。「俺、プロライダーになる!」って思っちゃったんです。

21歳の時に単身渡仏。出だしまさかのビリッケツ。

ーすぐにプロになれたのですか?

それが結構大変。日本には3つのカテゴリがあって、スポーツ・エキスパート・エリートと分かれています。とにかくこのエリートのトップ3に入ろうと思って、少しずつ順位をあげて行ったんです。そしていよいよエリートで挑戦する権利を得て、開幕戦を迎えたら、53位でがっくし。結構死ぬ気で練習したのに、上位半分にも入れなかったんです。同じことやっててもダメだと思ったんで「よし、フランスへ行こう!」と決めたんです。

ーなんでフランス?

競技自転車の本場なんです。アメリカからMTBは伝わりましたが、競技サイクルの本場はヨーロッパだから、練習するなら本場だ!と、アルバイトを掛け持ちして130万円貯めたんです。朝10時から夜4時まで働くという日々を7ヶ月続けました。

フランスに行く上でライセンスが必要で、その中に健康診断があるんですが、まさかの過労で血圧で引っかかって行けないという。衝撃でしたね。とにかく野菜中心の生活にしも、結局1ヶ月余計にかかって3回目の申請でやっとライセンスが降りたんです。

フランス語どころか英語もわからない中、滞在して2ヶ月経った頃にようやく最初のレースに出たんです。100kmくらいの距離でしたね。ヨーイドン!で30mくらいで一気に100人ほどにごぼう抜きされて全然追いつけませんでした。日本のレースはロースタートで、最後の1kmくらいで勝負するんですが、フランスは振り落とすアグレッシブな文化だって初めて知ったんです。結果、まさかのビリッケツでした。

ーえ、ビリ?

はい。3周目でコースを降りました。周回遅れになって「降りろ」って言われたんです。8kmしか走ってないのに最初はそれで終わりでした。惨敗。でも2日に1回はレースがあるから、ダメでも次頑張れば良い国。とにかくレースが楽しくて、少しずつ成果も出てきて、滞在して1年が終わる頃には完走できるようになっていました。完走できるのも、20人くらいしかいないサバイバルレースなんですよ。あまりに面白い環境だったんで、一時帰国してまたお金を貯めて、翌年また渡仏したんです。

ー2回目のフランスではどうでしたか?

2年目から勝負に絡めるようになってきました。賞金ももらえる時もあって。自信もついてきたので、日本でも頑張ってみようと思ってたまたま9.11が起こった日に帰国しました。その後北海道でのレースに出て、2位。その時の3位の選手が今ではオリンピック選手なので、勝ったことになりますよね(笑)。

1枚のファンレターで走る意味を見出して。

スポンサーやサポートは付いていたのですか?

いませんでした。24歳の時に「あれ?プロになっても自転車で食えてる人があまりいない」と知りました。究極の自己満をしているのではないかと気持ちがブレてしまい、辞めようとさえ思っていました。そんな時に人生で初めてのファンレターをもらったんです。「元気をもらいました」って書いてあって、僕が元気をもらったんですよね。翌年契約してくれる会社が出てきて、初めてお金をいただいて活動できるようになったんです。

ーそこからは順調だったのですか?

プロになってからは環境も良くなったので練習にも集中できました。しかし、当時の日本チャンピオンの元で修行していた年の開幕戦で、顎を打ってシーズンを棒に振ってしまったんです。怪我一つで動けなくなるなら、今後も考えて一段階高みを目指したいと思い、クロスカントリーマラソンに目標を絞ることにしました。ワールドカップも出始め、日本代表にもなったけどまた怪我で3年連続出れなくて。32歳の時にここが自分の限界だと思って、引退しようと決めました。引退前の最後のレースとして選んだのが24時間耐久レース。ギリギリまで2位のままで、ラストに抜けて晴れて優勝したことを機に競技人生を終えることにしたんです。

33歳で初めての社会人になるも、大失敗を経験

ー競技人生を終えた後はどうしていたのですか?

実は東京にあったベンチャー企業に就職しました。33歳で社会人デビュー。結構イケイケな会社だったのですが、色々激動で、責任ある仕事を任せてもらったらなんと経営が成り立ってないことがわかって。もうそこから1年は記憶にないですね。最後会社を売却した時に涙が出ました(笑)。無給だった時もあったけど、この時の経験とコネクションが今に活きてますね。この時繋がったバイクを作っている台湾の友人が、今僕のブランドの自転車を作ってくれているんですよ。

会社売却後に福岡に戻って、飲食立ち上げや自転車協会に関わったりしながら生計を立て直していた頃に、現在一緒に活動している朝倉観光協会と関わるようになったんです。

朝倉での豪雨災害から現在の拠点との出会い、移住し起業。

ー福岡に戻って自転車の活動を再開したのですか?

いや、実は4年前に朝倉で大きな豪雨災害が起こり、企画していた九州1周ツアーなどの企画が全て飛んだんです。それどころじゃなかった。あたり一面流木だらけで。そこで流木の利活用が急務になって、ウッドキャンドル企画が立ち上がったんです。これを、みんなで

ーえ?大五さんがキャンドル作り?

そうです。真夏にひたすらチェーンソーを使って切って、友人たちと共に500個以上作りました。ちょうどその企画が終わる頃、友達が朝倉に残ってよと言ってくれて、キャンドル企画も手伝ってくれた北原工務店さんが今Bike is Lifeのクラブハウスになっている古民家を見つけてくれたんです。倉庫もあるし広さもばっちり。元々秋月というところがサイクリストの目的地の1つなのもあって、僕もこの物件の前を良く通ってたんです。トントンと話が進んで、移住しつつ起業することにしちゃったんです。

ー大五朗さんだけでなく朝倉のみなさんはノリが良いですね。

そうですね(笑)。独立願望は前からあって。以前福岡市内で防災と自転車をテーマにプロジェクトをさせてもらっていた時に出会った方に相談したら、株式会社にして出資を募ったら良いと教えてくれました。そして、資本金901万円で3年前に株式会社をスタートさせることができました。

ー現在のお仕事内容は?

この拠点を中心にして、県や町のプロジェクトを担いながら、自転車も作って販売しています。また、MTBの講習も行っています。そして、西新エリアに2店舗目をオープンさせました。

自転車で人生が変わったから自転車の敷居を下げたい

トラック型のリペアルーム。どこでも移動してなんでもできる。

ー決断力がすごいなと感心するのですが、ご家族がスポーツ一家だったり起業家だったりしたのですか?

いえいえ。うちは母子家庭で貧乏でしたよ。母がバイクに乗っていたのでその影響はあるかもしれません。自転車に出会うまでは没頭できるものも、何か秀でたものもなかったです。平凡以下だったかも。でも自転車に出会ったことで人生が面白くなったんです。試行錯誤や苦い経験も、今の人生の幅だなと思うんですよね。

ー自転車のプロのセカンドキャリア・業界って実際どんな感じなのですか?

サラリーマンになったり、自転車屋さんになったりしますが、自転車をやってきた経験はまだ価値になっていません。選手として頑張ってきた時間の価値をもっと高めたいという想いはありますね。自転車ってスポーツだけじゃなくて、移動を豊かにしてくれる乗り物でもあって。日本の自転車は安いのに、修理代が高いから、買い替えてしまう。環境負荷が低い乗り物なのに、ゴミになる矛盾を感じていました。だからうちは買わなくても借りれるようにしたんです。整備しながら30年は乗って頂きたいなと思っています。

ー今後大五朗さんがやっていきたいことは?

業界や市場には穴が多いので、まずはそこを埋めていって、より自転車に関わる敷居を下げたいですね。今は売ってしまったらそこで関係が終わってしまう状態。修理に持ってきてくれればまだ再会できるけれど、どこでどう使われているか実はほぼわからないんです。そもそも使ってるかなって。ただ売ってみた時に虚しさを感じたこともあったんです。せっかく売るならその人が自転車を好きになれる環境整備までしてあげないと、本当の意味で自転車というカルチャーは広がらないと思うんです。「買ってもらう」ではなく、「使ってもらう」ようにしていきたいです。

自転車って今、お金持ちの父親がいる家庭が子供に買い与えているっていうケースが圧倒的に多いんです。ちょっと敷居が高いんですよね。僕も母子家庭の低所得者家庭出だけど、頑張ればフランスにも行けるし、プロにもなれる。卒業後だって自転車を楽しめる。その過程を見せていきたいですね。

最後に

たまたま参加した大会をきっかけに自転車にのめり込んでいった大五郎さん。競技時代はそれなりの結果を残しましたが、今の彼の価値は「自転車をとにかく楽しんでいるお兄さん」というところではないでしょうか。取材中も飛び出してくる人生苦労話に驚きつつも、それを笑い飛ばして何より今を楽しんでいる姿が印象的でした。フットワーク軽く日本全国を駆け回っては、森も道も関係なく自転車に乗り続け、楽しさを伝えている真っ黒に日焼けした大五郎さんの活動からは目が離せません。今回は大五郎さんの今に至るストーリーをご紹介しました。自転車好きだけでなく、日々の暮らしにちょっと悩んでいる方にもぜひ読んでもらいたいですね。

WRITER

Tomomi Imai
snufkiins LLC. 代表社員 25歳でフリーランスとして独立し、多様な分野にてプロデュースやディレクター業を経験。モノコトヒトをつなぐひと。多様な伴走を得意とする。国内外問わず事務局代行・企画編集など多様な業界を経て2018年に法人化。長崎県上五島にてキャンプ場兼カフェ「Re-harmo PJ」を展開し、島に仕事や場を作ったり。絶賛子育て中。自転車は小学校から日常的に使ってきた人。ママチャリからラレーなど経て、現在DAHON Dash Altena 2015年モデルを愛用。http://snufkiins.com